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2013年05月24日

母の戦争体験

定休日、散髪後お袋の老人ホームに行った。
ボケないように色々と昔話を聞くことにしている。
今日は戦争の話。

83才の母は戦争中、愛知県半田市の自宅近くの中島飛行機に学徒動員され、戦闘機の翼の内部の燃料タンクに防弾用のゴムラバーを貼付ける作業をしていた。
中島飛行機は後の富士重工、アイサイトでおなじみのスバルの前身。
軍需工場だから頻繁に爆撃の標的になったらしい。
ある日、例によって空襲警報が鳴り防空壕へ走って逃げる時に、大地震が発生した。
所謂、東南海地震である。
空襲警報は鳴るわ、地面はグラグラするわ、すっちゃかめっちゃかな状態で前を走っていた友達が地割れに足をはさみ、次の瞬間に地割れが閉じ膝から下が切断される光景を目の当たりにした。
どうすることも出来ずにいると、工員さんが大怪我の友達を背負ってくれ防空壕へ走り出した。そのとき「私の足を拾ってきて」と少女は気丈に言うたらしいが、工員さんに諭されて足を諦めた。
揺れが収まって工場へ行くと、地震で崩れており「これで明日から作業しなくてすむわ」と思ったが、そういうことを口に出すとどえらいことになる時代だったので気をつけたそうだ。
足がちょん切れた友人が心配だったが、バスに乗せられ学校へ戻ると来る時の半分に人数が減っていた。
母の女学校と隣の小学校は校庭を共有しており、足を失った友達は小学校の校長の娘さんだった。
それぞれ少し離れて整列して点呼を受けていたが、校長である少女の父親はこちらの列に自分の娘が居ないことに気が付き、ひどく辛そうな表情をしながらも毅然としていた。
その姿が今も目に焼き付いていると。
足を失った友達は命を取り留め、後日松葉杖で学校に来た。
後に学徒動員は終わったが、学校の講堂が野戦病院になり母は看護師の真似事をすることになった。
しかし医薬品は少なく、背中を擦って声をかけるくらいしか出来なかった。
何人も何人も目の前で死んでいった。
そして終戦を迎え「やれやれ、もう戦争はごめんだ」と、やっと口に出した。
「そういう訳で、私の女学校時代は勉強なんか全く出来なかったからこんなに頭が悪いのよ」と母。
「昨日のことは全く覚えていないのに70年前のことはよく覚えてる。オレは50年前のことは全く思い出せないから、お袋さんは大したものだ」と褒めておいた。

*母の記憶でありますから、事実と異る所も有るかと思いますが御容赦を。

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Posted by Joe at 04:03│Comments(2)介護
この記事へのコメント
いつかギターオーダーでけたらええなぁ・・・と、思いつつ、ちょいちょい覗かせてもらっています。

身近な所、似た様な話題だったので、書き込みたくなりました。

10年程前迄、半田市で、地回りな職に就いていたので、お母様のお話と同じ様な話を、随分沢山聞いた記憶が蘇りました。

>半田市の中島飛行機
現在は「輸送機工業」として、航空宇宙関連製品作ってる会社ですね、戦中から今でも、同じ場所にあるので、構内には避難豪跡やら当時からの建造物がちょいちょい残っていた記憶があります。

現在の、半田市~武豊町は戦中は、中島飛行機に限らず、物資輸送や工業インフラの要所だったらしく、随分空襲、攻撃に晒された地域の様です。
市内のあちこちに、銃撃弾痕が保存してあったり、前述の通り、当時学徒動員で軍需工場に動員されていた方から、茶飲み話の中で「オラがゼロセンつくっとったんやで」とか、「地震の話はちーとも新聞に載らんかったんだわ、友達半分に減ってしまう程の事だったのに・・・・」とか今では、考えられない当時の様子を、それは克明に話して聞かされました。

半田市では、地震+空襲同時発生の話と、伊勢湾台風の話は、どちらも時勢のせいか実際より小さく扱われた災害、災難として地元の人には語られています。

そんな半田市も、今年は「新見南吉」生誕100周年とかで、随分賑わっている様子。
普段は解放していない、南吉の母校(小、中、高)の資料解放だとかのイベントも催しているみたいですから、ご事情が許せば訪れてみるのも良いかもしれませんよ。
・・・・・・確か、南吉の母校である半田高校は、戦中の半田女学校と統合された学校ですので、懐かしい物もあるかもしれません。

/////

>ボケない様に、色々と・・・・・
>昨日の事は全く覚えていないのに・・・・・

つい、今朝、全く同じ事を私も、言ったり思ったりしたところでしたので、苦笑するやら、ニヤっとするやら。
きっと、日本中、世界中のどころにでもある事なのでしょうけれど、本当に年配の人間(特に身内)の記憶にはびっくりすることが、よくありますね。
家の母は、少々ボケは始まっていて、日常の中の流れですることや、会話は盛大に(!)齟齬があるのですけれども、昭和30年頃迄の記憶は普段の忘れっぷりからは、比較にならない程の正確さで、びっくりさせられます。
逆に、その鮮明な部分の時系列に狂いが生じない様に、接したり、治療したりをしていくのが良いのかもな、などとも感じます。

色々、好き勝手書いてしまいましたが、父母兄弟は、大事にせねばと、改めて感じた次第です。
Posted by Hiro@altavelocita at 2013年05月25日 12:51
Hiroさま
コメント有り難うございます。
facebookの方でこんな番組があったことを教えてもらいました。
まさにこの日のことで、驚きました。
それによると戦力低下がバレないように、震災被害はほとんど報道されなかったようです。
いつの世もマスコミは時の権力の犬に成り下がるのでしょうか。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001220050_00000
僕達の世代の戦争責任とは、この先同じような過ちを犯さない、つまり二度と戦争しちゃアカンということですよね。
Posted by Joe at 2013年05月26日 03:22
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