定休日、散髪後お袋の老人ホームに行った。
ボケないように色々と昔話を聞くことにしている。
今日は戦争の話。
83才の母は戦争中、愛知県半田市の自宅近くの中島飛行機に学徒動員され、戦闘機の翼の内部の燃料タンクに防弾用のゴムラバーを貼付ける作業をしていた。
中島飛行機は後の富士重工、アイサイトでおなじみのスバルの前身。
軍需工場だから頻繁に爆撃の標的になったらしい。
ある日、例によって空襲警報が鳴り防空壕へ走って逃げる時に、大地震が発生した。
所謂、東南海地震である。
空襲警報は鳴るわ、地面はグラグラするわ、すっちゃかめっちゃかな状態で前を走っていた友達が地割れに足をはさみ、次の瞬間に地割れが閉じ膝から下が切断される光景を目の当たりにした。
どうすることも出来ずにいると、工員さんが大怪我の友達を背負ってくれ防空壕へ走り出した。そのとき「私の足を拾ってきて」と少女は気丈に言うたらしいが、工員さんに諭されて足を諦めた。
揺れが収まって工場へ行くと、地震で崩れており「これで明日から作業しなくてすむわ」と思ったが、そういうことを口に出すとどえらいことになる時代だったので気をつけたそうだ。
足がちょん切れた友人が心配だったが、バスに乗せられ学校へ戻ると来る時の半分に人数が減っていた。
母の女学校と隣の小学校は校庭を共有しており、足を失った友達は小学校の校長の娘さんだった。
それぞれ少し離れて整列して点呼を受けていたが、校長である少女の父親はこちらの列に自分の娘が居ないことに気が付き、ひどく辛そうな表情をしながらも毅然としていた。
その姿が今も目に焼き付いていると。
足を失った友達は命を取り留め、後日松葉杖で学校に来た。
後に学徒動員は終わったが、学校の講堂が野戦病院になり母は看護師の真似事をすることになった。
しかし医薬品は少なく、背中を擦って声をかけるくらいしか出来なかった。
何人も何人も目の前で死んでいった。
そして終戦を迎え「やれやれ、もう戦争はごめんだ」と、やっと口に出した。
「そういう訳で、私の女学校時代は勉強なんか全く出来なかったからこんなに頭が悪いのよ」と母。
「昨日のことは全く覚えていないのに70年前のことはよく覚えてる。オレは50年前のことは全く思い出せないから、お袋さんは大したものだ」と褒めておいた。
*母の記憶でありますから、事実と異る所も有るかと思いますが御容赦を。