介護日記 ペーパードクター編 その2

Joe

2011年11月19日 05:52

秋深まる今日この頃、皆様如何御過ごしでしょうか?
大阪は知事市長のダブル選挙で盛り上がってますが、、、ん、盛り上がっているか?少なくともわたしゃあまり。。

さてだいぶ間が空きましたが、介護日記ペーパードクター編の続きです。記憶が飛ばないうちに書いておきましょう。

経鼻経管栄養チューブを交換できない医師に代わって新しい在宅医を探すべく、宝塚市内の開業医を訪ね歩いたのですが、なかなかうまく行きません。父の状態を伝えると、その重症さのせいでしょうか断られてしまうのです。
もう一つ奇妙なことがありました。前任の医師がいまいクリニックの今井医師だと言うとマイナスの反応がでるのです。
ある医師はウーンと考え込み、ある医師は露骨に嫌な顔をして尻込みするのです。
一例を挙げます。尼崎のさくらいクリニック。ここの桜井医師はある人の紹介で辿り着いた地元では熱心で評判良い在宅ホスピス医です。アポを取るべく電話でかくかくしかじかと事情を話した時のことです。
桜井医師は事情を聞いて、
「それは腕の悪い医師ですなー、さぞお困りでしょう、なんなら今から行って交換してあげましょう、渋滞無ければクルマで15分ほどですから主治医になることに問題はありませんよ」
と嬉しい返事で主治医を快諾頂きました。
しかし話の最後に前任の今井医師の名前を聞いた途端に「そりゃまずい、彼のあとはダメだ」と。
しかし何とかお願いしますと頼み込み、とりあえず今井医師と連絡を取ってみてと御願いして、電話を切りました。
そして数時間後電話がきました。
・今井先生は腕の良いドクターだから彼に出来ないチューブ交換は私にも出来ない、
・場所も遠いのでウチでは無理だ、
・今井先生とは友人だから云々カンヌン(細かい内容は忘れた)
とおっしゃいました。
どうやら私はややこしい人間を敵に回してしまったようです。
しかし、どうなんですかねぇ。もし私がギターの修理で失敗して顧客が他のリペアショップに行ったとします。そこのリペアマンは偶然に私の友人で、その件で電話をもらったら、私でしたら「ワシ、かくかくしかじかで失敗してもうたから、何とか上手く修理してやってや、くれぐれも頼むでぇ〜」とバツの悪さを感じつつ平身低頭でお願いしますけどねぇ。
しかしそうは言うてなかったことが桜井医師の態度豹変から想像出来ます。おそらく「あの藤森はややこしいこと言う患者やからやめときやー」とでも言ったのでしょうか。あるいは「オレの後でオマエが上手くやってもうたらワシの評判ガタ落ちやんけ、絶対引き受けるなよ!」と言うたのでしょうか。どう言ったのか分かりませんが、今井医師からの何らかの影響で、私たちは新しい主治医を得ることが出来ませんでした。
そして桜井医師は評判の良い医師らしいが、チューブ交換は出来ないということ。クルマで15分の距離は営業範囲外だということ。尼崎で私と同じように寝たきりの親の介護に奮闘している方には参考にして頂きたい。しかし多分そんなことはない評判通りの良い医師なんだろう。僕だけに言った言い訳だと思うよ。
私は3つの会社に勤め、3つの業界で仕事をして、今は自営業を営んでいる一般的な大人だ。決して聖人君子のような清らかな汚れのない人間ではなく、金の為に仕方なく後ろ指さされることもしてきたし、ウソもついてきたし、まあ、私に限らず多かれ少なかれ普通の人は少々の悪人と少しの善人の両面を持って生きているものであろう。そんなどこにでもいる人間なんだから、「大人の事情で主治医に成れないのよ、解ってくれ」と正直に言ってもらえたら、それだけで十分理解出来るし腹も立たないのに、こんな見え透いたウソを言うとは。少々あきれた。

かくして主治医が見つからないまま時は過ぎていき、飛び込みセールスのごとく開業医を訪問するのに疲れて、そして年末を迎え焦ってきました。
あー、あの今井医師に頭下げてお願いすることになるのかな、、、と思い始めました。しかし親父を毎月、救急車で病院に搬送してチューブ交換するのはリスキーだしオヤジ本人にとっても辛いことだろう。必要とは言えタクシー代わりに救急車を使うのも社会的に非難されそう。
とクヨクヨしながら、売上げノルマに押し潰されそうな新人営業マン時代のような重い気分だったが、仕事そっちのけで主治医探しに奔走した。
しかし自然は無情に時計の針を進め、残り時間は減る一方。なんとか年末年始の休みに入る前にチューブ交換だけでもしておきたかったので、兵庫県の片田舎で開業している友人の医師に、非常に厚かましいが、いざとなったら交換してくれないかと泣きついた。
彼は快諾してくれた。とても嬉しかった。ノルマ未達で会議室で説教くらった後に、元気出してと缶コーヒーをくれた総務部OLのKちゃんのようだ。Kちゃん、今ごろどうしているのか、もう結婚して子供も出来ただろう、、、、、そんなことはどうでもいいか。
心優しき友人に勇気づけられ、私は再び医師探しにまい進するエネルギーを得た。
そして数日後、小林(おばやし)にある内田医院を訪問した。 棄てる神あればなんとやらで、 内田先生は「2ヶ月も交換していないのはヤバイ。とりあえず交換だけでもしようやないか」と、今井医師の影響なんのそので動いてくれた。が、チューブが無い。
時は年末12/28日。医療用品卸業者も業務終了してる。
そこで内田先生の知り合いの医師数人にチューブを持っていないか探してもらって、見つかったのが金井町の中出医院の中出医師。在宅医の看板を上げていなかったが、胃カメラの名手だそうで、内田先生いわく「ワシより上手いから、すぐ行ってこい」と。で、速攻訪ねて行くと、中出先生、チューブを握りしめて玄関でお出迎え。挨拶もそこそこにオヤジの元にお連れした。ものの数分でスムーズに交換。
おおー、こんなに手早いのは初めてだ。中出先生、テクニシャンじゃないか。
あらためてオフクロとお礼を述べ、主治医をお願いしたが、中出先生は既に引退している御歳70数歳で、現在は2代目が取り仕切っており、在宅医療は行っていないとのこと。
しかし来月も主治医が見つからなかったら、交換はなんぼでもしてくれると暖かい言葉をもらった。
内田先生も往診する患者を多数抱えており、もう無理とのことだったのが、取りあえずの時間稼ぎになったので、最低限の状況で年越しは出来るかなと思った。
そして中出先生と別れてから内田先生より連絡があり、すぐ来いとのこと。
行くと、ご自身の人脈から私たちの為に主治医を探して頂いていた。内田先生にも正直に今井医師のことは話してあった。内田先生は何もコメントしなかったが、少し厳しい表情をされたことを記憶している。この複雑な地域医療の力学を踏まえた上でご紹介頂いた医師は前任医師の影響の及ばぬ医師であった。
紹介してくれたのは栗田クリニックの栗田先生。オヤジのCT写真やデータを持って、かくかくしかじかと事情を話し、米搗きバッタの如く頭を下げ、主治医をお願いした。
「内田先生の紹介だったら断れないよ」と快諾してくれた。
とっぷりと日の暮れた夜の宝塚を実家に向かってクルマを走らせながら、安堵のため息を50リッターくらい吐き出し「オヤジもう安心だぞ」とガッツポーズしながら涙が出そうになったことを覚えている。

翌日、栗田先生が仕事納めしていたにもかかわらず、看護師さんを連れて往診してくれました。
「藤森さん、初めまして」と寝たきりのオヤジに、にこやかな挨拶をしてから診察が始まった。
栗田先生は気さくな感じで、人柄も良さそうだし、お袋の少しピントの外れた話しにも、うんうんと相づち打ちながらじっくり聴いてくれている。ホッとした。

中出医院も栗田クリニックも私が持つ在宅医のリストには載っていなかった。中出医師は前述の通り引退。後に知ることになったが、栗田先生は一年前に在宅医の看板は下ろしたそうだ。しかし内田先生の紹介だということと、私の剣幕が凄かったので、断れないと思ったそうです。
でありますから、宝塚市内でオヤジと同じような重症な親御さんを抱えて介護に奮闘している同世代の方には参考になりませんね。栗田先生も中出先生も現在は在宅医ではありませんので。
内田先生はお忙しそうですが、誠実なお方です。
初めて会う私に、しかも自分の儲けにはならないのにあれだけ医者探しに協力してくれたのですから。小林近辺で私と同じように主治医に困ったら相談してみてもよいかと。

それにしてもオヤジのような症状だと、自宅で最期までと言うのは、かなり無理があるということを思い知らされた。家で死にたいというのは、そんなに無理なお願いなのかね?
弱者に優しくない社会だと思った。
過去私はいつも強い者を相手にしてきた。サラリーマン時代は、頭の固い上司や、なかなか契約書にハンコを捺さない社長さん、値切りの激しい仕入れ担当者、現場の親方や職人さん、等々。いつも相手以上に強くなって打ち勝とうと頑張って来た。
父の介護が始まってから、初めて弱者の現実を目の当たりにして思う。経済成長とか、国を豊かにするとか、winwinとか、グローバル化とか、高効率化とか、、、もういいじゃないか。これ以上速いパソコンは要らないし、これ以上豪華なクルマも必要ない。牛丼だって280円にしなくてもいい。
日本は戦争もテロも暴動も無い世界一平和な国になったし、社会システムは非常に安定している。 生まれてくる赤ん坊の死亡率は世界一低いし、平均寿命も世界一長い。 もう充分だ。ここらで発展は終わりにしよう。
どこかが発展すれば、どこかが衰退する。一方が儲かれば片方は損をする。当たり前だ。
これからは父のような弱者、病人や障害者、まだ社会システムが未成熟なアフリカや中国などの人たちの幸福が優先されるべきじゃないかな。

ともかくやっと安心して年を越せることになり安心した。
このまま長年暮らした家でオフクロと共に、神様の決められた時が来るまで静かに過ごして欲しいと思った。

つづく

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