介護シリーズ 10回目 藤森元 逝去

Joe

2010年03月27日 03:49

先日、父が天に召され、介護日記を書く意欲は一気に失われたのだが、
もともと自分が在宅介護のことをネットで調べようとして、
有用な情報がネット上に無かったから書き始めたものであったわけで、
そういう意味でやはり途中でやめるのは良くないので続けて書いていこうと思います。
在宅介護が始まって先週で終わるまで、結構問題が起きたのです。
しかし終わり良ければすべて良しで、
「死ぬ時は自宅で」というノルマを達成した私は奇妙な満足感を感じているのである。


が、ここでは介護と少し離れて、父のことを書いておこうと思います。

昨今、何かを調べる時はネットで検索するのが当たり前ですが、父の情報はほとんどネット上にアップされていない。
そこで、せめて経歴だけでもネット上に保存すべく以下に記す。
ギターリペアショップのブログという父には似つかわしくない場所かもしれないが、許してもらおう。





藤森元(ふじもりはじめ) 略歴



1925年 11月 大阪に生まる

1948年 12月 日本茶督教団札幌北光教会で受洗

1950年 3月 北海道大学農学都農学科卒業(植物育種学専攻)

1950年 4月 日本YMCA同盟学生部主事として奉職

1950年 9月 名古屋YMCA主事に出向

1952年 1月 日本YMCA同盟学生部主事として帰任

1952年 10月 日本YMCA同盟学生部関西駐在主事として京都に移る

1958年 9月~59年 8月 ニューョーク・ユニオン神学校のProgram of Advanced Religious Studies、及びスイス・ボセー・エキュメニカル・インスティチュートに参加

1960年 7.8月 世界キリスト教会議(ストラスブール)及び世界学生キリスト教連盟総会(テサロニケ)に出席

1960年 10月 東京に帰任し日本YMCA同盟学生部主任主事に就任、以後十年間に「教会の生命と使命」委員会主事、SMC方策委員会主事、大学キリスト者の会主事、同機 関誌「大学キリスト者」編輯者、日本基督教団学生伝道委員、同世界宣教協力委員、日本基督教協議会宣教部理事、同協議会規則改定委員会書記などを歴任

1963年 4月 日本YMCA同盟国際部主事を兼任

1964年 8月 世界学生キリスト教連盟総会(エンバルセ・リオ・テルセロ、アルゼンチン)に出席

1967年 4月 日本YMCA同盟都市部主任主事を兼任

1970年 4月 世界YMCA同盟東南アジア地域主事に就任、香港に駐在し、各国YMCAを巡廻、また香港東南アジアYMCA研究所で学科も担当。この間エキュメニカル諸会議に出席

1973年 3月 病を得て帰国。世界YMCA同盟委員長・同総主事及び同アジア地域委員会委員長より表彰を受く

1973年 4月 神戸YMCA副総主事に就任、神戸YMCA就任後、兵庫県青少年本部委員、神戸大学社会教育主事養成講座講師、青年洋上大学講師など県社会教育関係 各種委員、神戸市勤労者福祉施設建設運営委員など市民局、神戸市都市制度調査会委員など神戸市企画局関係並びに青少年問題協議会副会長、図書館協議会委員 など宝塚市社会教育関係各種委員を歴任。また日本基督教団兵庫教区財務部委員、社会部委員等をつとむ 日本基督教団甲東教会員

1979年 3月 神戸YMCAを退職

1979年 4月 神戸女学院に奉職、同年10月より総務部長に就任。

1983年 3月 著書「大学とキリスト教と私 ~世俗なる聖なる生~ 」
「アジアの中の日本とキリスト教運動 ~ナショナルなものと世界的なものの間~ 」を上梓

1990年 11月 神戸女学院を退職

2006年 秋 道路で転倒しクモ膜下出血を発症

2007年 9月 右脳の大部分を損傷する大規模な脳梗塞を発症。寝たきりとなる。

2008年 2月 著書「自分史 ~キリスト教とYMCAと私~ 」を上梓

2008年 11月 自宅での終末期を過ごすべく退院し在宅介護に切替える

2010年 3月15日 老衰により召天 84歳




最後に父の「自分史」の後書きとして私が書いたものを一部抜粋して記す。



私が10代のころ、どういう経緯だったか失念しましたが父に何かの相談をした時のこと。
「主体的に生きろ」と父は私に言った。
主体的という言葉の意味も、そのあとに続く説明も愚鈍な若造であった私には何のことかさっぱり理解出来なかったが、「主体的に生きろ」という言葉だけが脳味噌に突き刺さった小さなトゲのように記憶に残った。
後に大学で哲学をかじった私は、その言葉が意味する深遠に硬直した。
それは思想的なものへ目を向けてくれたと同時に、思想的な生き方は自分には無理だと思い知ることにもなった。
しかしながら、その言葉は後の人生の肝心な場面では必ず海馬の奥底から現れ、ある時は確信をもたらし、ある時は厳しい詰問であったりした。
私はその言葉に支配され、その言葉は私の行為を評価する物差しであり、心の重石でもあった。
そしてそれは決して心地悪いものではなかった。


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