オフクロが京都に行きたいというので嫁ハンと三人で行ってきた。
50年ほど前両親は、勤めていた京都大学YMCAの学生寮である
地塩寮の隣に立つ職員住宅で生活していた。
そこで私は生まれたらしい。。。
と言うのも、生まれて数ヶ月後には東京に転居したので、川端通から東一条を入ったこの場所の記憶は全く無い。
地塩寮も職員住宅も
ヴォーリズが手がけたものであります。
地塩寮は保存対象になっているようで、使われてはおらずたたずむのみであった。
職員住宅の方は50年を経ても今でも同じ用途で使われているようだ。
ちゃんと作れば長持ちするんだねぇ。
母はここに住み、寮の学生たちの世話をしておったそうな。
当時は戦後15年ほどで日本はまだ貧しく、ずいぶん苦労したらしい。
懐かしい風景を見て、認知症の母の海馬が刺激されたのか、昔話がどんどん出てきたのには驚いた。
今の地塩寮はヴォーリズの建てた旧館の裏にある。
中から学生のはしゃぐ声や奇声がが聞こえてきた。ゲームをやって盛り上がっているみたいだ。
私の時代、つまり30年前はマージャンだったが、同じようなもんだね。
そこからさらに20年をさかのぼって50年前も同じようなものだったのかな?
そうだったらオフクロはアホ学生相手に大変だっただろうなー。
いや、アホ学生ではない。
当時の地塩寮からは日本を代表する企業の重要な人物が数多く輩出された。
その中の何人かとは今でも交流が有るが、どなたも素晴らしい人格者である。
今のアホ学生とは全然違う。
いや、今でも京大は優れた人材を輩出しているし、ゲームに夢中の学生さんはきっと優秀なんだろう。
アホなのは私の居った甲南大学だろう。
いや、アホなのは甲南の中の軽音楽部だけだろう。
私なんざ5年間ドイツ語を勉強して、今覚えているのは
「イッヒ フンバルト デル ウンコ」という下らないギャグだけだ。
軽音以外の学生さんたちは真面目だったと思うよ、多分。
50年前の8月16日に、白川通から大津へ抜ける山越えの道の途中にある
バプテスト病院で
スッポンと私を産み落とした後に、真赤に燃えた大文字が窓から見えたそうだ。
ここにも行ってみたが、すっかり近代的に建て直されていた。
「昔はこんなに奇麗じゃなかったねー」と。そりゃそうだろ。
サラリーマン時代は京都を担当していた時もあったので、私にとっても懐かしい一日であった。
写真は全てRicohのGRデジタル。
9/19は臨時休業です。
北海道の甥っ子が剣道で全国大会に出ることになったので、舞洲まで応援に行くんですわ。
知らん顔しとったら、イクラやトウモロコシをもう送ってくれへんかもしれんので。
初戦敗退したら戻ってきて店開けるけど。。。ガンバレ彗君!!